薄氷
氷を落としてしまった。氷は床を滑っていき、やがて壁にぶつかって静止した。カップに氷を入れる手を止めて、床に落ちた氷をみる。洗ってカップに入れ直しても問題はないが、冷凍庫には氷がたくさん入っているのでわざわざこの氷を使わないといけない理由はない。私はそれをじっと眺めた。カップに入れないでおこう。この氷は私の体内を経由することなく、いずれは溶けて消えていくだろう。
どうせ使わないなら、少し遊んでみよう。
氷を踏む。足の裏から腰、そして脊髄に向かって、背筋の伸びそうな感覚が走る。心地よい。氷の上に立ってみる。砕けるかもしれない危うさがある。しかし、氷は砕けない。温度と重量の勾配によって、氷がどんどん溶けて、その姿を変えていく。この圧力は生物にかかる淘汰圧、あるいは進化圧のようなものだろうか。氷は壊れることなくじわりじわりと溶け続ける。この氷は淘汰圧に屈することなくスムーズに形態を変化させることができそうだ。
もし砕けたら、と考える。もし砕けても、相変化は不連続になるものの行き着く先は同じだ。私は一人苦笑した。こういうことにあまり答えも意味も類似性もない。何かにつけてそういうものを探そうとするのは良くも悪くも私の性なのだろう。
氷が砕ける。溶けて接地面積が小さくなり、私の重みに耐えきれなくなったのだろう。すべての存在はやがて淘汰あるいは更新されていく。旧いものが存在する余地はすり減り、やがて消えていく。私の祖父は消えた。私もやがては消えていく。しかし、材料は使いまわされる。私たちだったものは半永久的に残り続ける。
消えるまでに何を残せるだろうか、存在が消えた後も残るものはあるのだろうか、と考えたことがある。結局その問いに答えを出すことはできていない。
私たちは日々個性を危機にさらし、削り取られながら生きている。ふと現実という夢から覚めれば、そこは奈落の上の綱渡りであることに気づく。私たちは危ういバランスの上にかろうじて生きており、いくらでも代わりの利く存在だ。いてもいなくても大差がない。世界にとって私たちの存在とは案外そんなものだが、私たちは都合よくその事実から目を逸らしている。
虚構という幸せで健全で幾分愚かな錯覚という薬を信じることができなければ、人は楽しく生きられない。そうして私は生き方を変えた。
足元には温い水が残った。
雑巾
雑巾を取り出す。ほこりやしみを吸って灰と茶が混ざった色に染まっている。その雑巾を水の入ったバケツに浸ける。雑巾がふやけて広がり、使い古されて穴だらけの姿があらわになる。バケツから引き上げる。雑巾からぽたぽたと水が滴っている。私は雑巾を絞った。
ああ、また痩せたな。
雑巾を絞るとよくわかる。以前よりさらに擦り切れている。もうかなりくたびれているのだろう。
ありがとう、そして、申し訳ない。
雑巾は他のものに付着した汚れを吸い取ってきれいにしてくれる。その代わりに自身はどんどん汚れ、ぼろぼろになっていく。他の大半の布きれとは明らかに異なる過酷な扱いを受け、そしてその命は他のものより短い。まるで生贄のような存在だ。
この雑巾を雑巾にしたのは私だ。そして、彼が雑巾になってしまった理由はない。私の気まぐれだ。たまたま目についたのが彼だったというだけのことだ。
この雑巾は雑巾になるべくして生み出された布きれではない。それにもかかわらず雑巾にされ、過酷な扱いを受けることになってしまった。たまたま私の目についたばかりに。
我々人間の中にもそういう人々がいる。きっと彼らも雑巾になるべく生まれた存在ではない。なにかの巡りで偶然雑巾になってしまったのだ。
彼らは感謝され、ありがたがられることもあるが、彼らの代わりになろうとするものはいない。誰もが自分にその役割が回ってこないことを祈りながら彼らによそよそしく感謝する。ときには心のどこかで軽んじ疎んじていることさえあるのではないかと思える。
雑巾のような存在の人がいるおかげで社会や組織が円滑に回るということはよくある。しかし、その存在に真に感謝し、祀っているものはどれほどいるのだろうか。
数学に意味を与えるもの
知識ではなく知恵として数学を使うには数学そのものだけでなく、そこに意味を付与する方法を学ぶ必要がある。
数学はそれ単体で世界を明るく照らしだすことはできない。意味を与えてやらなければ、そして、その意味の中に良心がなくては。