不知火文庫

私設図書室「不知火文庫」の管理人が運営しています。

短編

悲しみは遅れてあなたに忍び寄る

私は幼い頃あの出来事を経験した。周りの人々はひどく悲しんだらしい。だが、私はあの経験を悲しいと感じることができなかった。私は幼かった。たぶん、私は自分の悲しみをうまく悲しみとして認識できるほど心が成長していなかったのだろう。 大人になっても…

語りたいこと

「最近話したいことがどんどんなくなっていっているような気がするんだ」 「ほう」 「話すだけならできるし、意見を求められたら言うこともできるよ。でも、どうしても語りたいというものがないんだ。思い出せないのか、わからないのか、失われたのか、そも…

情熱の置き場

「語ることがないんだ。語りたいものが何かわからないし、語り方もわからない」 「それでも、後に続くもののために何かを遺していくのが学者や芸術家というものではないのか」 そうだと思う。だから、今も遺そうとしているんだ。君はそういう風には思ってく…

ある喪失

午後10時。今日は作業がはかどらない。やる気も出ない。今日はそういう日だということをうすうす理解しながら粘り続けたが、どうやら本格的に調子が悪いようだ。 ベッドに寝転がる。伸びをすると腹筋が伸びて気持ちがいい。ベッド脇にある背の低いテーブルの…

日記帳(※5000文字くらいあります)

本を探していると、本棚から見覚えのある、手のひらに収まるくらいのノートを見つけた。使用開始日は二〇〇八年五月十三日、使用終了日は二〇〇八年八月三十一日。私が大学二回生の頃の記録のようだ。ノートの中には、当時考えたことや感じたことがたくさん…

あるいは無

〔↓のBGMを聴きながら読むと雰囲気が出るかもしれません〕 恐怖で身体が一瞬こわばる。数瞬後、私ははじけ飛ぶように逃げた。全力で走る。絞り出せる限りの力を振り絞る。橋が見えてきた。橋はいけない。目立つ上に挟み込まれると逃げられないからだ。橋の下…

テーブル

私の家に新しいテーブルがやってきた。姉が自分は使わないから、使うならもらってほしい、といって私に譲ってくれたのだ。卓は畳一枚を一回り小さくしたくらいの大きさ、こげ茶色の脚がついていて、その脚からはうっすらと木目が見えている。 私は姉からもら…

Suicide is painless

山の中を歩き続けていると、浅い霧が漂い始めた。私たちは構わず道を踏みしめていく。足元には落ち葉や朽ち木が無数に散らばっている。歩を進めるたびに落ち葉や朽ち木が踏みしめられて、ぱりぱり、ぱきぱき、と小気味よい音が鳴る。朽ちたものを踏みしめる…

悪いことだとわかっていても手を染めなくてはならないことがある、と彼は言う。彼が言っていることはたぶん正しい。そういうときもあるだろう。禁忌されていることに手を染めざるを得ないような「枠組みの崩壊」は低い確率ではあるが常に起きる危険性を孕ん…

Summer eyes

仕事が終わった。今日も一日、大過なく過ごせた。ほっと勢いよく息を吐く。いい一日だった、と言ってよいだろう。 職場を出ると、太陽が沈む準備を始めていた。天と地に蒸し焼きにされているかのような暑さはすっかり落ち着き、淡い熱気の中を駆け抜ける風か…

Old places, old faces

掃除をしていると写真を見つけた。見つけたといっても、自宅の壁にかけている写真だ。普段から視界には入っているはずだが、ほとんど意識していなかった。そのせいで写真が存在していること自体忘れていて、真新しいものを発見したような気分になった。 写真…

線香花火

時刻は午後9時。盆を過ぎても相変わらず暑い夜が続いている。しかし、浜辺に出ると暑さの中にさわやかな、淡い水色のような心地よい空気がある。風が涼しい。夏の終わりがそこまできている。過ごしやすい季節の足音が聞こえてきそうだ。しかし、夏が終わって…

終着駅

私の責任じゃない、と彼が叫ぶ。 確かに私が知る限り彼に責任はない。少なくとも私の感覚では。しかし、それを証明して何になるのだろう。責任がなければ苦難が回り道して私たちを避けてくれるというわけではない。ほとんどの苦難は責任があろうとなかろうと…

ある夏の死(要修正)

自宅を出る。空は鈍い鉛色で、触れられそうなほど低い。前日から未明まで雨を降らせ続けた雲は、まだ低い空に居座り続けている。未明まで続いた雨と雲越しの日差しは空気を重く湿らせ、その空気が地表付近をすっぽりと覆っている。 私は三キロメートル強離れ…

不知火

私は真剣だった。真剣だから息苦しくなり、ついに「扉」の先を知ることは叶わなかった。そして、今もここにいる。 私は見失いそうなほど夢中で探した。そうすると何かを掴めそうになる。そして、掴む。しかし、何かはいつもすり抜けた。あるとき、逃さず掴ん…

完全さとファインチューニング

完全なものは存在しない。抽象概念も具体物も何もかもが完全ではない。どこかに必ず綻びがある。それに気づかないか目を瞑るかしない限り完全さは存在することができず、そうして守られた完全さは不完全さの上にしか成り立たない。 「完全」の定義は変幻自在…

薄氷

氷を落としてしまった。氷は床を滑っていき、やがて壁にぶつかって静止した。カップに氷を入れる手を止めて、降りた氷をみる。洗ってカップに入れ直しても問題はないが、冷凍庫には氷がたくさん入っているのでわざわざこの氷を使わないといけない理由はない…

雑巾

雑巾を取り出す。ほこりやしみを吸って灰と茶が混ざった色に染まっている。その雑巾を水の入ったバケツに浸ける。雑巾がふやけて広がり、使い古されて穴だらけの姿があらわになる。バケツから引き上げる。雑巾からぽたぽたと水が滴っている。私は雑巾を絞っ…

36℃

温い。36℃くらいかもしれない。物思いに耽っているうちに紅茶が冷めてしまったようだ。口に含んでしばらくすると、ダージリンの淡い味と香りが口の中に広がっていく。温いものは温度による刺激をほとんど生み出さず、口に含んでも物質的な感覚だけが目立つ。…

誰かが私の向かいに座った。私は顔を上げる。すらりとした長身の、整った目鼻立ちをした美しい女性だ。女性は横を向いて長椅子にかけている。女性は長椅子にかけると、さっと鞄から文庫本を一冊取り出し、その本を読み始めた。ここでしばらく時間をつぶすの…

待ち人

ひどく蒸し暑い日の夕刻、海岸線に足を運んだ。橙の空と紫の海を見つめる。空の青は消え失せ、海の青は紫としてその一部を残したようだ。高い湿度のせいか大気は霞み、空と海の境界が曖昧なグラデーションに覆われている。紫の珈琲に橙の牛乳を混ぜたカフェ…

怪奇

ある日の夜、眠りにつきかけたころ、突然どこかからキリキリという不気味な音がし始めた。何かにみられているような、何かが迫ってくるような感覚に襲われる。私は布団に包まり、その端を握りしめて怯えながら夜を明かした。 気が付くと朝になっていた。私は…

除草

17時。日はかなり西へ傾いてきている。日没まであと2時間程度だろうか。長い石段の前に立つ。石段に足をかけ、上り始める。一歩当たりの歩幅が小さくて上りにくいので数段飛ばしだ。階段を上りきると高台に出た。墓地の入口だ。付近には蛇口とたくさんのバケ…

転倒

知人に会うため西宮市を訪ねた帰り道。地下鉄御堂筋線梅田駅。ホームへ続く階段を下りる。目の前からやってくる人が急に私の視界の外へはじき出された。人が地面に倒れこんでいる。どうやら転倒してしまったらしい。 携帯電話が地面を滑る。私の前を通りすぎ…

π

次に何がやってくるかは誰にもわからない。1だろうか。2だろうか。3?4?それとも……。次に何がやってくるかわからない。永遠の謎だ。 πはどこまで行っても解けることのない謎を持っている。現実的な観点からいえば、少なくとも日常生活や科学の世界において…

永遠桜

桜の優しい香りが漂う。桜の木の下、淡く青い花びらが広がる。その日、一斉に永遠桜が咲き始めた。それは二人の願いが叶うこととお互いが別れる運命にあることを意味していた。 「桜、咲いたね。」 「うん、咲いたね。」 永遠に咲き続けるといわれる桜が咲い…