不知火文庫

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線香花火

 時刻は午後9時。盆を過ぎても相変わらず暑い夜が続いている。しかし、浜辺に出ると暑さの中にさわやかな、淡い水色のような心地よい空気がある。風が涼しい。夏の終わりがそこまできている。過ごしやすい季節の足音が聞こえてきそうだ。しかし、夏が終わってその季節を迎えることを考えると一抹の寂しさと悲しさが胸にこみ上げる。その理由は私自身にもよくわからない。

 ライターを手に取って火を出す。風が吹いて明るく淡い橙色の炎が揺らめく。その炎に線香花火を近づける。線香花火に火が着き、先端部が美しい橙色の光を出しながら丸まっていく。思わず、ああ、とため息が漏れる。

 人はなぜ花火に興じるようになったのか。そして、今も興じ続けるのか。答えはきっとたくさんあるのだろう。私は正解を知りたいわけではない。正解を決めたいわけでもない。ただ純粋に気になった。たぶん、生存本能ではないだろう。人間が今よりもずっと野生動物の危険性を警戒する必要が遠い昔の名残で、本能的野生動物除けになると感じている可能性がないではないが、当時の視点から費用対効果を考えたとしても、あまりピンとこない。

 美しいからだ、と私は思う。その美しさは多くの偶発的なきっかけや出会いを作り出す。一瞬の安息をもたらしてくれる。思い出を美しく、そして少し物悲しく胸の中にしまい込んでくれる。花火は疲れたもの、多忙な日々を戦うもの、葛藤するもの、絶望しているものを救うことはできないかもしれない。だが、花火がもたらす一瞬の安息が人々が自分の足で立ち上がるきっかけになることならあるだろう。それだけでよいのだ。少なくとも私にとってはそれだけで十分だった。

 線香花火の火球は大きくなり、断続的に放電のような火花を散らしている。

 線香花火の火球の向こうに大切な人たちや自分自身の姿が見える。そっと瞳を閉じる。火球が弾ける音だけが聞こえる。私は私たちのために祈った。瞳を開けると、火球はもう落ちていた。なぜか一筋の涙がこぼれた。夏の終わりの、物悲しくて贅沢なひとときだった。

 そして、私は浜辺を後にした。いつのまにか足取りは軽くなっていた。

 

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