不知火文庫

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Summer eyes

 仕事が終わった。今日も一日、大過なく過ごせた。ほっと勢いよく息を吐く。いい一日だった、と言ってよいだろう。

 職場を出ると、太陽が沈む準備を始めていた。天と地に蒸し焼きにされているかのような暑さはすっかり落ち着き、淡い熱気の中を駆け抜ける風からは、爽やかな晩夏の香りがする。

 そのまま帰宅するのはもったいない。どこかに立ち寄ってぼうっとしよう。どこがいいだろうか。立ち寄る場所を考えながら、自宅までの道を歩き始める。職場の近くにある踏切を渡り、港へと向かう道を進む。今日は海に近い方の道を歩こう。

 港の前を通り過ぎてしばらく歩き続けると、河口付近に差し掛かった。対岸へと続くアーチ橋が見える。私は橋に向かって歩を進めた。

 橋のてっぺん付近で立ち止まる。山側には河口が見える。河口付近にはテトラポットが山のように積み重ねられている。今日は河口の底が露出するほど潮が引いている。大潮だろうか。大きく潮が引くと、河口付近にたまった腐敗物やごみなどがたくさん見えてしまうので、あまり気分のよいものではない。そして、河口よりもずっと視界の遠く先には山間部を突き抜ける国道が見える。山の緑の中に異質な線が通り、そこを鉄の塊が往来している。瞳を閉じ、空に向かって大きなため息を吐いた。

 海側を向く。海側には水平線付近に寝そべろうとしている夕日が見える。夕日の僅か右下には白くて大きな煙突が見える。あとしばらくすれば、その煙突の先端に夕日が重なってろうそくに火がともっているように見えるだろう。

 そのまま漁港へ続く道を進む。漁港はすでに静まり返っており、せりが行われる場所付近の広場にきじとらの猫が数匹いる以外に動くものの影はない。

 私は近くの路上でまるまると太った大きなきじとらのオスが倒れて息絶えていたことを思い出した。数年前のことだ。おそらく自動車に撥ねられてしまったのだろう。目立った外傷はほとんどなかったが、頭部にべったりと血がついていた。その猫は過去に私の家で飼っていたきじとらによく似ていた。私はしゃがみこんで息絶えている猫を見つめた。身体に触れると、身体すでに硬直が始まっていた。やはりもう死んでしまっていた。やりきれない気持ちが胸の中を渦巻いた。しかし、私にはどうすることもできなかった。ただ、彼の不幸を悼み、冥福を祈ることしかできなかった。

 私は今でもときどきその猫のことを思い出す。そして、心の中で静かに彼のために祈る。今もまた祈っている。

 猫が息絶えていた場所から道路を挟んだ対面に、非常に小さな公園がある。公園というよりは遊具が備え付けられた個人の庭という方がよいのではないかと思えるほどの広さしかない。私はその場所が好きだった。そこには桜の木が生えている。毎年春になると、その公園は美しく桜に彩られる。その桜を見るたびに、私は自分がひどく傷つけた女性のことを思い出す。数年前、私は彼女とともに月明かりに照らされている満開の桜を眺めた。二人は幸せだった。この幸せがいつまでも続くと、何の根拠もなくそう信じていた。

 しかし、私は臆病だった。慢心してもいた。その臆病さと慢心が彼女をひどく傷つけた。そして、彼女は立ち去った。ちょうど数年前の今頃のことだった。

 その公園には入らずに通り過ぎよう。きっと悲しいことを思い出してしまうだろう。そして、きっと悲しいことを考えてしまうだろう。私は公園の前を通り過ぎて海岸線へと続く道を歩いた。海岸線の入り口に差しかかるところにも公園がある。こちらはさっきの公園よりもずっと大きい。ガードレールを跨いでその公園に入り、波打ち際まで歩いていく。海と夕日を眺める。美しい。海からの風が私の頬を優しく撫でる。私はベンチに寝転がった。

 生きていると悲しいことだらけだ。なぜ生きているとこんなに悲しいことがたくさん起きるのだろう。悲しみが多い生を生きてしまう自分が悲しくなる。そんなこと考えても仕方がないことは理解している。悲しみが増すだけだ。それでも私は時々どうしようもなく悲しくなるのを今でも止められずにいる。

 そんなときは海を眺める。夕日を眺める。波の声を聞く。風の詩を聴く。潮のにおいを嗅ぎ、自然の営みに心を委ねる。そうすれば、悲しみが少しだけ和らいで、立ち向かう勇気を取り戻せる。

 ふと我に返ると、空は茜色の洋服を脱ぎ捨ててくすんだ青墨が東の空から西の空へと広がっていこうとしていた。太陽はもう水平線の彼方へ行っている。このままずっと黄昏に浸っていたくなるが、いつまでもこうしているわけにはいかない。私は立ち上がって浜辺を後にした。

 

Summer eyes by 久保田利伸

http://j-lyric.net/artist/a003a74/l0037bb.html

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※カメラマンの金城佳一氏が撮影した写真です。

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※この二つは三年ほど前に私が撮影した写真です