不知火文庫

私設図書室「不知火文庫」の管理人が運営しています。

日記帳(※5000文字くらいあります)

 本を探していると、本棚から見覚えのある、手のひらに収まるくらいのノートを見つけた。使用開始日は二〇〇八年五月十三日、使用終了日は二〇〇八年八月三十一日。私が大学二回生の頃の記録のようだ。ノートの中には、当時考えたことや感じたことがたくさん書き込まれている。当時はまだ万年筆で字を書く習慣がなく、ボールペンを使っていたので筆跡は味気ないが、真剣さは今の私にも伝わってくる。事実、私は真剣だった。

 当時の記憶が蘇る。九年前、大学二回生だった私は京都市左京区一乗寺に住んでいた。楽しいことも苦しいこともたくさんあったが、今ではそのほとんど全てが美しい思い出になっている。いつの間にか、京都での思い出を美しく思えるほどの時が流れていた。記憶は流動的なもので、都合よく変化し続ける。それがよいのか悪いのかはわからない。ただ、記憶とはそういう風に都合よく変化するものなのだ。

 私は記録をじっくりと読み返したくなってきた。本探しは後にしよう。ノートの中を見つめると、その中に吸い込まれるような気がした。当時の情景や心を追体験しているような気分になってくる。

 

 

――二〇〇八年六月十七日の記録――

 私は中学二年生のある日、周囲の人たちと自分の感覚が大きくかけ離れていることに気が付いた。それまでもそう感じることはあったが、ここまでかけ離れているとは思わっていなかったので愕然としたことをよく覚えている。

 私は意義や理屈を重んじ過ぎていた。楽しさにさえも意義や理屈が必要だと考えているほどだった。周囲にそんな考え方をいているように思える人は一人もいなかった。私は頻繁に周囲の人たちとの間に温度差を感じ、その度に寂しさを募らせた。私は周囲の人の鈍感さにうんざりした。同時に、自分の窮屈な考え方にもうんざりしていた。互いの温度差を埋めたくて、何かにつけて周囲の人々に理由を説明しようとした。

 真剣に理由を考え続け、そしてみんなに説明した。しかし、周囲の人たちは私の話に興味を示さなかった。実のところ、私自身も自分が物事に与えた意義や理屈が適切なのか、まるで自身がなかった。ただ、正しいのだと押し通したかった。

 しかし、聞き入れられることはなかった。私は孤独だった。

 いつしか、私は自分の感覚や気持ち、意見を他者に伝えたることを諦めていた。そうなった理由は覚えていない。そう思うに至った理由は存在するのだろうが、もう私自身の中には存在していないような気がする。もしかすると、存在はしているが記憶の引き出しを開けられなくなっているのかもしれない。ただ、中学二年生のある日、絶望して殻の中に自分の心をしまい込んだことだけはよく覚えている。そして五年後、私は大学に進学した。

 大学に通い始めると、私の孤独は幾分薄れた。変わり者扱いされることは相変わらずだったが、興味を持って話を聞いてくれる人や真剣に話し合える人に出会えた。

 大学に通い始めて数か月経ったある日、ふと私は世界を統括する理論が存在するかもしれないと思った。そして、それは数学、物理学、哲学などの分野で取り扱われることのある主題だった。私はその理論の解明に携わりたいと思い立ち、専攻していた化学とその周辺の事柄に関する知識以外にも抽象代数学理論物理学分析哲学などの勉強をし始めた。

 数学と物理学と哲学は、形や方法は違っていても世界を理論で統括することを目指す学問だった。少なくとも当時の私にとっては純粋にそのように思えた。世界を統括する理論を見つけるためには、少なくともそれを目指すには、これらを学ぶとよい気がした。

 しかし、それはあまりにも遠大で身の程知らずな願望だったのかもしれない。私は苦しい。休む必要があるのかもしれない。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 間違いなく私は身の程知らずだった。遠大な目的は、実現しようとしながら実現するようなものではなく、長年蓄積された人類の英知の歯車がたまたま寸分の狂いもなくかみ合うことで生じる。科学における大きな果実は偶然の産物なのだ。願いは日々研究に没頭しているうちに運よく大きな果実にありつけたらいいな、という程度のささやかなものにとどめておくべきだった。

 また、私はその果実を味わえるほどの才能も機運も持ち合わせていなかった。大学で自分より遥かに優れた才能に出会う度、私は嬉しい反面、ひどく悔しくなった。そしてあせった。絶望しそうになった。

 そして、どんな些細なことでも構わないから、この分野の何かで一番になりたかった。しかし、なれなかった。大きな果実も小さな果実も得られなかった。私は血を吐くほど研究に取り組んだ。それでも果実は得られなかった。その時私は修士課程一回生だった。

 息苦しさを抱えて日々を過ごしているうちに、いつしか私は完全に目的を見失った。生きていくことがひどくつらいもののように感じた。苦しくてたまらなかった。目指すものを失い、存在する理由がなくなったにも関わらず存在し続けていることが苦しくてたまらなかった。

 

 

――二〇一一年五月二五日の回想――

 何もする気が起きない。呼吸をする理由がないと思ってぼうっとする。しかし、私の肉体はそのまま呼吸を止めさせてはくれない。理由がなくても呼吸させられ続ける。呼吸というものは理由がなくてもできること、そしてしなくてはならないことなのかもしれない。

 呼吸をするように何かをすることができるとは、理由がなくてもその何かをする能力があり、かつする義務があるということなのかもしれない。能力と能力を行使する義務によって自己が存在する理由が保証されている。

 そして、私にはその保証が与えられなかった。

 数値や理屈などどうでもよかった頃が、生きることに理由が必要なかった頃が、無性に懐かしくなった。あの頃に戻りたいと願った。しかし、もう理由が必要でなかった頃の自分に戻ることはできなかった。

 

 ―昔は理屈や証拠がなくても楽しかった。その頃のことをよく思い出す。いつからこうなったのだろう。理屈や証拠を求めだしてから、生きることが楽しくなくなっていった―

 ―あるいは一番になることにこだわりすぎていたのかもしれない。身の程知らずだった―

 

 皮肉にもすべて諦めかけたその瞬間、大きな果実の幻覚がみえた。私は世界のすべてを、絶望という形で知ったような気がした。もうこれ以上生きていくことはできない。

 小高い丘の上にあるキャンパスの最上階に上り、柵の外に身を乗り出す。京都市内の夜景が見える。綺麗だ。しかし、その綺麗さも私を慰めてはくれても生きる力を与えてはくれない。飛び降りてしまえばきっと楽になれる。悲しむ人はたくさんいるだろうか。家族や身内は悲しむだろう。友人たちはどうだろう。驚くくらいはしてくれるだろうか。みんな、ごめん。心の中で謝った。涙は出なかった。

 飛び降りた後に起きる事を想像した。足がすくむ。飛び降りれば自由になれる。足が震える。家族、身内、友人が私を呼び止める。自由への壁はひどく高く、そしてぶ厚い紙一重だった。

 あと一歩をどうしても踏み出すことができない。私はそのまま立ち尽くした。一瞬、視界一面が花で覆われたような気がした。いつか耳にした、夜が始まると咲き、夜が終わると散っていくという夜告花というものが本当にあるならば、こういうときに咲くのだろうかと思った。私はそのとき初めて自分の夢の終わりを悟った。両目から一筋だけ涙がこぼれた。

 世界全てを知ったような気になっていたことはやはり錯覚だった。私は世界も自分自身のこともよく知らないままだ。限界が近づいている。私は形のないものと向き合うことに疲れた。もうこれ以上果実を追い求めることはできない。私の夢は賞味期限が切れかけている。腐敗する前に美しく葬りたかった。そして私は研究室を去った。

 

 

――――――――――――――――――――――

 数か月後、風の噂で秀才と名高かった知人が自殺したという話を聞いた。その二か月ほど前、梅田で偶然彼と出会ったとき、死相のようなものが見えていたことを思い出した。おそらく、彼が自殺したのはそれから一か月ほど後のことだろう。私は自分のことで精いっぱいで、死相を浮かべた彼をこちらに引き留めることができなかった。キャンパスの最上階で最後の一歩を踏み出していたら、私も彼と同じ側に立っていたかもしれない。私は背筋が凍るような気がした。

 

 研究室を去ってから半年後、私はかなり元気を取り戻していた。しかし、立ち直るにつれて、また私は自分が一番になれるものを作りたいと願うようになっていった。自分を特別にしたかった。特別になれる環境がほしかった。その世界の中で完璧なものを構築したかった。

 結局それもひどく苦しい生き方だった。特別でいるというのは、理解されにくく、攻撃されやすい存在であることを隠さないということだ。自分のからにこもることなく、世間をうらむこともなく、現実から目を背けて適応することを放棄することもなく自分の願いを叶えられるほど、私は強い存在ではなかった。結果として、その願いは私の感覚や思考に大きな歪みを生じさせ、私を抑圧した。

 私は大学生だった頃と同じことで苦しんでいた。そしてあるとき、ふと思った。手放してもよいのではないか、夢も願いも全て。

 

―永遠や完全を求める心は学術や芸術としては有益で有意義で適切かもしれないが、生きることにおいてはなかなか野暮だと思うぜ。そこらへん、時と場合によって使い分けねえと、ただのつまらない男になっちまうぞ―

 

 集団の中の個人としての役割を守りつつ、楽しく生きるのがいいのかもしれない。自分の存在を自分だけで定義しようとすると人はもろくなる。生きていくことが難しくなる。どんなものも存在は不確かだ。不確かだが、周りにあるもののおかげで錯覚でもかりそめの自己をなんとかとどめたり定義したりして生きていける。絶対性は多くのものにとっては毒性が強すぎる。私にとっても。天才たちにとってさえもそうかもしれない。

 私の適切でない願いの後遺症は今もまだ私の中から出ていくことなく留まっていて、今でも私を煩わせることがある。何とかうまくなだめて抑えてうまく付き合ってはいるが、知らなかったころにはもう戻れない。しかし、私は今もこうして生きている。少しずつ過去を手放しながら、理由を放棄しながら、それでも何かを掴みたくて、迷いながら生きている。何かに生かされている。全てを捨てるつもりはない。全てと決別するつもりもない。ただ、折り合いをつけたいとき、手放すという選択が有効になる場合がある。

 長く生きて経験を重ねることで、私は自分を守る方法を学んだ。突き詰めすぎないこと、無理をしてまで見えないものを見ようとしないこと、をできるようになった。そして、そういうことができるようになって、改めて自分はそもそも何もわかっていなかったこと、これからも何もわからないままであろうということに気づいておかしくなった。

 

 ふと思い立って、白紙のページに今の自分から過去の自分たちへ言葉を贈った。そうした理由はわからないが、なんとなくそうした方がよい気がした。もしできるのなら、過去の自分に今の自分の言葉を聞かせてやりたい。そんなことはできないが、今を生きる過去の自分のような人に言葉をかけることならできる。自分のような思いをする人を少しでも減らしたい。たぶん、私は少しだけ年を取ったのだ。私は普通であることの楽しさと気楽さを受け入れた。それもまた悪くない、と。

 過去の私は、未来の私がこんなことを思う人間になるとは夢にも思わなかっただろう。過去の私が今の私をみると、驚くだろう。そして、怒り、嘆き悲しむかもしれない。それとも、信念を放棄した人間だと言って見下すだろうか。

 彼に伝えたい。抗うことは決して悪いことではない。大いに抗うべきだ。抗うことは大切だと。

 しかし、未来の自分を否定し、犠牲にするような抗い方をいつまでも続けることはできない。継続可能な抗い方を掴まなくてはならない。抗いながら年を取り続け、それでもあなたの中に残るものを大切にしてほしい。それがあなたの真の生き方だ。その生き方はきっとあなたの中で結晶化され、一片の真理になるはずだ、と。

 

 私はノートを閉じた。ノートを読み始める前に何の本を探していたのか、もうすっかり忘れてしまっていた。