待ち人
ひどく蒸し暑い日の夕刻、海岸線に足を運んだ。橙の空と紫の海を見つめる。空の青は消え失せ、海の青は紫としてその一部を残したようだ。高い湿度のせいか大気は霞み、空と海の境界が曖昧なグラデーションに覆われている。紫の珈琲に橙の牛乳を混ぜたカフェオレのようだ。
空と海は闇の一部になるまでに通る色彩が異なる。闇の一部になるまでに通る道筋は世界に存在するものと同じだけ存在する。終着点が同じなのに経路が大きく異なるのは生命とよく似ている。
空と海の果てで海の紫と空の橙が混ざりあう。紫が橙に向かって立ち上り、煙のように散っていく。境界とはこのような混ざり方をするものだったのだろうか。
ため息をつきながら瞳を閉じる。遠い過去を思い出す。ため息が吹きかかって、記憶が優しく朽ちていく。 もやと闇が明ければ、空と海は明瞭な境界線を取り戻すだろう。そして、世界は何事もなかったかのように回り続けるだろう。
決断はもやと闇を晴らして明瞭な境界線を生み出す。そして、その境界は年輪のように私の心に刻み込まれていく。この境界線もまたそうだった。適切であったかどうかはわからない。だが、私は今こうして生きている。社会的に見て、まずまず健全に生きられているのではないかとさえ思う。たぶん、この境界線は私を生き延びさせる程度には適切だったのだろう。
先日、風の噂であの人が元気にしていることを知った。
私は何度も、もう一度あの人のもとを訪ねたいと思った。しかし、行動に移すことはできなかった。あの人との思い出の場所やあの人に所縁のある場所には時々吸い寄せられるように足を運んだ。しかし、あの人に出会うことはなかった。
思い出の中のあの人はもういない。セピア色に褪せた、温かくてほのかに苦い記憶の中にだけあの人は佇んでいる。記憶の中にしか存在できない人を想う。あの人は境界線の向こう側にいる。
数日前、私はその境界線が薄くなってきているような気がした。あるいは、不明瞭な層に変化してきているように思えた。年輪のように刻まれていた線が曖昧になってきている。境界線をなくしてしまうわけにはいかない。私はその境界線で自分を守らなくてはならない。
生きるのだ。
瞳を開く。頭がぼうっとする。私はいつの間にか海岸線の側の階段付近で横になっていた。くすんだ青墨に染まった空が見える。
瞳とまぶたについてぼんやりと思考を巡らせる。世界を観測するのものと、世界の認識を遮るもの。瞳は見つめ、まぶたは遮る。瞳は世界を紡ぎ合わせ、まぶたは世界を切り取る。瞳は夜の空に、まぶたは昼の空に似ている。あるいはその逆でもよいかもしれない。
しばらくして身体を起こした。橙赤色に燃える太陽は既に水平線のかなたへ去っていた。黄昏時だ。世界が急速に色褪せていく。
心がざわつく。夜が、もうそこまで来ている。急激に光が失われていく。空は茜色の洋服を脱ぎ捨て、くすんだ青墨が東の空から西の空へと広がっていく。やがてそれは西の境界へたどり着く。そのころには青墨はより濃密になり、限りなく透明度が高くなるだろう。
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私はずっと迷っていた。そして、さらに色が失われていく。
「褪せていくことを嘆くのか。褪せていくことを楽しむのか。」
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待ち人は来ない。空は衣装を脱ぎ、濃密で、抜けるよう透き通った青墨の世界が少しずつ広がっていく。もうここには来ない、そう決めて私はこの場を後にした。
(未完・加筆予定)