不知火文庫

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ある夏の死(要修正)

 自宅を出る。空は鈍い鉛色で、触れられそうなほど低い。前日から未明まで雨を降らせ続けた雲は、まだ低い空に居座り続けている。未明まで続いた雨と雲越しの日差しは空気を重く湿らせ、その空気が地表付近をすっぽりと覆っている。

 私は三キロメートル強離れた位置にある珈琲屋さんへ向かって歩き始めた。

 歩き始めて十数分、私は国道沿いを歩いている。玉のような汗が額に溜まり、眉に流れ、一部は目頭を経由して地面に落ちていく。日は南中過ぎ。雲が日差しを遮っているが、それでも暑い。重く湿った空気が私の鼻と口の周りにまとわりついて、ひどく息が苦しい。鼻と口に真綿を押し付けられているようだ。全身が冷たくてからりと乾燥した空気を求めている。

 路肩には真夏の強い日差しで色が落ちたねこじゃらしが群生している。その中にペットボトルが落ちていた。カバーが日に焼けてひどく退色している。空き缶、惣菜パンの袋、グミの袋、板チョコレートの包装など、よくみると路肩にはたくさんのごみが散乱している。くずかごまで持っていこうかと思ったが、量が多すぎるので持っていく気が失せた。少しならば持っていけるのに。持って行こうと思えば持って行けることは理解はしている。私は体良く持っていかない理由を拵えているだけかもしれない。一抹の疾しさを拭いきれない自分自身に言い訳をしながら、私はごみの横を通り過ぎていく。

 しばらく歩き続けると、路上に蝉が落ちていた。腹部が欠損していて、ぴくりとも動かない。すでに息絶えているのだろう。南無。私は蝉のそばも通り抜けた。車道には自動車がまばらに通り抜けていく。重く湿った空気の粘り気が増す。心にぷつぷつと小さな穴が空き、灰色の憂鬱が忍び込んでくる。どうやら風景の観察はこれくらいにしておいた方がよさそうだ。

 私は通り過ぎていく自動車のナンバープレートでテンパズルを始めた。計算が追い付かなくなったら私の負けというルールだ。単純に計算すればいいだけの足し算や引き算とは違って案外難しく、昼の交通量では若干自動車に押され気味になる。

 12-34、87-21、215……

 蒸し暑さで頭がぼうっとする。いつもよりも調子が悪い。ぼうっとする頭に活を入れたいが、原因はたぶんこの天気と温度なのでどうすることもできない。私はテンパズルをやめた。しばらくの間はぼうっとしている状態を受け入れてうまくお付き合いするしかなさそうだ。

 

 目の前をナンバー11-58の自動車が通りすぎる。

 11-58、34-78……

 テンパズルにはときどきいわゆる難問といわれるものがやってくる。しかし、ある程度数字の傾向や組み合わせ方のパターンを知っておけばこのような問題はかえって苦労しなくなる。難しいのはもっと普通の、それでいてややこしい問題だ。

 たいていのものは案外そんなものではないかと思う。困難な問題は案外卑近で、一見難しそうにも恐ろしそうにもみえない。そういうものに限って、傾向分析や感知や対策に時間がかかりすぎて手遅れになるのではないか。本当に恐ろしいのは、爪を見せずに、あるいは見せていることに気づかせずに忍び寄る存在だ。

 

 腹部を欠損した蝉が脳裏をよぎる。おそらく鳥類に襲われて腹を食われたのだろう。蝉にとっての鳥類はまさに爪を隠して忍び寄る存在だったのだろう。きっとあの蝉は死んでいた。しかし、あの状態から息を吹き返させることはできないのだろうか。もしできるならば、生物の死の定義を修正する必要が出てくるかもしれない。

 肉体の欠損部や神経系を修繕修復し、エネルギー供給源を付与すれば再度蘇るのだろうか。仮に肉体や神経球が死によって不可逆的なダメージを受けていても、人間をはじめとする哺乳類ほど複雑な機構を持つ生物でなければ、少なくとも外観上は生き返らせることができるかもしれない。

 そうなると従来の意味での死が何であるかわからなくなる。さらに進んで人間の脳でさえも再設計できるようになれば、人間の意識までもが死を超えて再生産されるようになるかもしれない。

 …………妄想が広がりすぎている。そんなことは物理的にありえなくはないとしても、現実的にはほぼ不可能だろう。少なくとも近々にはまず不可能だ。自分の浮ついた妄想に苦笑が漏れる。まだまだ先は長い。私は生と死について考える世界からログアウトした。

 

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 死を処理する世界、その断片的な現場は生の現場のすぐそばにある。普段死の隙間が見えないのは、私たちにとっては僥倖といえるだろう。

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 さらに歩き続けるとソーラーパネルが見えてきた。青くキラキラした結晶が散りばめられた板は、無個性で牧歌的な田舎の風景にはうまく溶け込めておらず、その周囲だけが異なる世界にある空間のようにみえる。付近の電信柱には縦にひびが入っており、そのひびに沿ってしみの筋が入っている。私はその隙間を眺めた。

 空間が動く。一瞬だ。隙間がソーラーパネルを設置している空間に広がったような気がする。よく観察しようと目を凝らすと、また一瞬だけ空間が動いた。そしてすぐに元に戻った。私は何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。しかし、目を離すことができない。胸が悪くなり、しばらくその場に立ち尽くした。電信柱を観察し続ける。汗で視界がにじんでひびの隙間がよく見えない。

 やがて空から強い日差しが差し込み始めた。雲の隙間からは太陽が見える。まるで空がひび割れているようだ。空から晴れ間が落ちてくる。日差しは精を取り戻し、周囲が急激に晴れ始める。どこかから誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。私は電信柱の方を見た。電信柱に入ったひびの隙間に何かある。

 私が過去に壊してきたものだった。私が過去に捨ててしたものだった。隙間の向こうからは私を呼ぶ声が聞こえ続けている。