不知火文庫

私設図書室「不知火文庫」の管理人が運営しています。

語りたいこと

「最近話したいことがどんどんなくなっていっているような気がするんだ」

「ほう」

「話すだけならできるし、意見を求められたら言うこともできるよ。でも、どうしても語りたいというものがないんだ。思い出せないのか、わからないのか、失われたのか、そもそもないのかどうかはわからないけど」

「ふむ。それは伝えるべきことがあると感じる相手がいない、ということなんじゃないの」

「そうかもしれない。なんか寂しくなるな」

 わからないといったが、少しはわかっていた。語りたいことはあった。それがいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。最初は思い出せないだけだった。しかし、少しずつ失われていった。今も失われ続けている。

 それと並行して、わからないものが得られた。わからないが、心の中で叫んでいるものがある。しかし、それを語る術はない。今の私にはわからない。そしてきっと、わかる頃にはもう私の心は今の叫びを喪っている。

 語るものはやがて全て失われるのだろうか。それとも……

 

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情熱の置き場

「語ることがないんだ。語りたいものが何かわからないし、語り方もわからない」

「それでも、後に続くもののために何かを遺していくのが学者や芸術家というものではないのか」

 そうだと思う。だから、今も遺そうとしているんだ。君はそういう風には思ってくれないようだけど。

「うん。でも、今はそんな気持ちにはなれないんだ」

「表現したいことをうまく表現できないからか」

「うん」

「表現できないから作らないのか」

「たぶん」

 そういって私は席を立った。たぶん、君が思っているような理由じゃない、とは言わなかった。これ以上彼と話していたくない。遺したくても遺せない、遺したいものも遺し方もわからない。情熱の置き場がない。その苦しみをわざわざ説明したくない。

 どんな説明をしても、彼の耳には言い訳に聞こえるだろう。そして、彼はまず作ればいいというだろう。遺したいものが何かさえ見失いそうな私にはそれすらできない。私はそんなことを説明するために言葉を使いたくない。

 もう一度作りたくなるそのときまで、放っておいてくれ。そうすれば、また立ち上がれるときがくる。

 責任だとか、まずはやるべきとか、言い訳だとか、義務だとか、効率的な方法だとか、そんなことについて話したり説明させられるのがうんざりだった。そんな言葉では奮い立たない心があるのだ。

「もし私のために何かしたいというならば……」

 沈黙する。彼が嬉しそうに私の顔を見る。

「今すぐここを出て行ってくれ」

 

 どうせ君にはわからない、というのさえ億劫だ。自分の殻に閉じこもっているだけだといわれるだろうから。誰しもがそんな強い人間側の解決策を取れるわけではない。彼は致命的にそのことを見落している。作る苦しみも理解できないだろう。私とは全く違う人間。嫌な人ではないが好きにはなれない。

 私はこういうことを話すのが好きではない。だから話さない。その沈黙を無遠慮に土足で荒らす彼を疎ましく思った。こういう強者は話していてうんざりする。

 彼のような人間は世間に流布した正論を盾に自らを正義で固める。弱っている人間にも配慮なしに正論をぶつける正義の代行者になる。

 

 私はそんな代行者とは語りたくない。そんな代行者の側に立ちたくない。

 

 

 私はただ、自分の情熱の置き場を見つけたいだけだ。

 

 

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指相撲

 争いごとをする元気があるなら、指相撲でもすればいい。

 きちんとしたルールがあり、相手の生身に触れ、精神的に手を取り合う前段階として物理的に手を取り合う動作があり、対話が生じ、かつ命の取り合いにはならないのだから。

脳腸二元論

 以下の投稿は友人Wの寄稿によるものです

 

【脳腸二元論】

 これは、人間の進化について、脳と腸の対立構造によって説明しようという試みです。

 以下の仮説は、生物の進化は自然選択に従うという仮説を前提としています。表現の都合上、生物が意識的に進化したように読める文面を含みますが、知性が介在しているということを意味しませんし、知性が介在しなくとも成立する説であると主張します。

 

 我々の祖先である単細胞から話を始めます。

 単細胞の中に、代謝能力、増殖能力を獲得する者が現れ、姿かたちを維持できる者たちが残っていきました。

 この流れの中では、光や酸素のエネルギー(海底では硫化物や熱)をより効率的に活かした者が、増殖していったでしょう。

 この世界において、より有利に立ち回れるのは、他の細胞が自身のエントロピーを努力して減少させたところを、栄養として吸収する能力を持つ者。つまり、自身以外の細胞を“捕食”する能力を持つものです。この時点が、「腸」機能の発生といえるでしょう。

 「腸」機能を持った細胞の中でより有利に立ち回ったのは、自身を取り囲むように細胞を配置し、その細胞に守ってもらう代わりに、他の細胞に吸収した栄養を行き渡らせるようにする多細胞生物でしょう。これによって「腸」が内臓化したといえます。

 この多細胞生物の中でも特に栄えたのは、「事前に死に至る状況を回避できる能力」を獲得した者です。感覚器官と運動機構による回避能力を持つ者の天下となります。

 おそらく最初の感覚器官は、特定の物質に対して反応する、嗅覚・味覚に近いものだったと思われます。しかし、こうした物質拡散に依存した感覚だけでは、ごく近くの脅威しか排除できません。特定の音波振動や光に反応する機構は、より遠くの脅威をより迅速に感じ取れたでしょう。しかし、化学物質のやりとりで寄り集まった細胞群が、生存に有利な情報をやりとりする機構を持つとすれば、それは物質拡散に依存していたでしょう。となれば、結局体内での情報伝達が、回避行動までのボトルネックになってしまいます。

 このような状況で、電気化学信号を用いた情報伝達を獲得した者が選択的に生き残っていったと思われます。電気化学信号の発達により、体内の情報伝達が高速になるほか、重力や自身の運動の影響を受けづらくなります。

 

 さらに時代が下ると、より複雑な処理を行うことができる、神経をからみあわせた神経球を獲得した者が有利に立ち回るようになっていきます。

 ここで、腸を頂点とした高度なコロニー、即ち「生体」が形成され進化してきた上で、神経球が大きな立ち位置を占め始めます。これまで化学物質の拡散に頼って情報伝達が、効率的な神経に置き換わり、神経球の体内での支配率も上がっていったと思われます。このことは、腸からすれば(敢えて擬人化すれば)「面白くない」状況といえます。腸は自分を守ってほしいのであって、自分以外に情報伝達を支配する存在は望ましくありません。一方神経球側からすれば、腸の存在が「面白くない」。

 

 そこで、神経球は「逃げた」のではないでしょうか。より正確な表記にすれば、神経球が腸より離れた個体ほど、神経球が優位になり続けたということです。神経による情報伝達はある程度距離が空いても深刻な影響は受けませんが、物質拡散に依存した情報伝達効果は距離の二乗に反比例してしまいます。「距離を取る」戦略は、神経球からすれば単純かつ効果的な戦略といえるでしょう。

 

 こうして、脳は体の先端「頭部」まで逃げ、可動域を除いた体の先端「腹部」の腸から距離を置いたと考えます。・・・しかし一部の種では、さらに逃げたように思われます。

 

 ヒト種。

 脳が逃げたという仮説は、逃げた先は「上」であったとするならば、ヒトの二足歩行への進化を説明できるのではないでしょうか。

 

 物質拡散による情報伝達(あるいは「支配」)の大敵は、先ほど申し上げた通り、距離と「重力」です。腸の支配からよりよく逃げられた神経球とは、体全体の方向を変え、腸の体に対する支配率を下へ押しつけた神経球ではないでしょうか。こうして腸の支配から解き放たれ、独自に増殖、複雑化した神経球が、我々が「脳」と呼ぶ器官に発展したと考えます。

 

 実のところ、私は前から、二足歩行に移行した理由の説明に納得がいかなかったのです。よく聞く理由は「樹上生活から追いやられたため、地面の上からでも遠くを見渡したかったから」「体を大きく見せたいから」というものですが、少なくともこれらの理由では、納得がいきません。二足歩行をメインにする理由になりえないからです。実際、短時間なら直立する生物は少なくありません。プレーリードッグは二足で立ち上がり外敵を探りますし、コアリクイは仁王立ちして威嚇します。弱い生物とはいえないクマも二足歩行します。しかしこれらの生物も基本は四足歩行です。普通は外敵や獲物に自分の存在を悟らせたくないことが殆どなのですから、直立など間抜けこの上ない体勢です。直立のメリットは、少しの間立ち上がることができれば十分享受できるものなのに、樹上生活から追いやられるほど弱かった先祖が、天敵に自分の姿を晒す二足歩行を選択するとは思えません。

 外的環境の影響でないならば、「内的環境」の影響ではないでしょうか。体内で行われた、「脳対腸天下分け目の戦い」の結果として、戦場たる生体は上下へ、二足歩行へと「引っ張られた」と考えるのです。

 

 以上の説は、「ホモ・ナレディ」の記事を読んで思いつきました。なんでもこのご先祖様は、上半身が我々とかけ離れて原始的なのに、下半身は我々ととてもよく似ているのだそうです。しかも、脳の大きさや時代から考えられないほど知性ある行動を取っていたそうです。具体的には、死んだ同類を洞窟の奥深くに「隔離」していたそうで。これが「知性的行動」といえるかどうか、私には判断がつきませんが・・・。ともあれ、仮に以上の話が真ならば、このホモ・ナレディは、新興勢力である「脳」の支配が強い上半身が発展途上であり、「腸」の支配が強い下半身はすでに確立されていた、と考えることができます。また、化石から得られる情報では考えられないほど知性があるとすれば、それは「姿勢が良かった」からではないかと考えられます。その動物がどんな姿勢で生きていたかという情報は、化石から読み取ることが難しい状況であるはずです。直立で行動するほどに、「腸」の支配率が下がり、「脳」の支配率が上がっていくならば、「姿勢の良い」類人猿の行動原理は、「脳」に支配されやすくなるはずです。