悲しみと仲良くすること(走り書き)
「私は悲しい」
「そうか。それでも、生きていかなくてはならない。君も私も。」
諦めることが悪いとは思わない。救いはまだある。楽しみを追い求めるだけではなく、悲しみと仲良くすることを学んだ方がいいのだろう。
「うん。今は悲しみをうまく味わう訓練を積むときなのかな」
悲しみをうまく味わえるようになれば、悲しみに打ちのめされることは少なくなるだろう。悲しみと仲良くすることができれば、人生はきっとより豊かになる。
「そうかもしれない。悲しい出来事を変えることはできない。悲しいものは悲しい。それでいいと思う。しかし、悲しみ方を変えることはできる。悲しみと仲良くする方法はきっとある。意思あるところに道は拓ける。そういうものだと思う。君に意思があれば、きっと道は拓ける」
明示的なもの、あるいは生き方
「なぜあなたはこんなことをするのですか。私には割に合わないことをしているようにしか見えません」と彼女は言う。
私はそんな難しいことを考えてはいない。明示的な思想や理念はない。しなくてはならないと思ったから、したいと思ったからそうした。ただそれだけのことだ。
昔は私にも明示的な思想や理念があった。そして、模索してもいた。しかし、模索しているうちにどこかへいった。いつの間にか思想や理念などどうでもよいものになっていた。なくなったのか、見えなくなっただけなのかはわからない。ふと気が付くと、そんなことを考えることそれ自体にも興味がなくなっていた。
そして、それらは私の中で身体化し、ブラックボックスの中に埋め込まれた。
ため息が漏れる。自分はたぶん馬鹿なのだろう。
「わからない。ただ、たぶんそれが私の生き方なんだ。そんなに悪くはないだろう。」
彼女はしばらくぼうっとしていたが、呆れたように瞳を細めて微笑んだ。
ほらね。だから僕はそうするんだ。
これ、かっこいいね(走り書き)
時刻は18時前。日が沈むまで、あと一刻程度だ。空の青が暗くなり始め、西の水平線付近は赤みを帯び始めている。実家に帰ると父がガレージでジャズを聴いていた。
「ただいま」と父に言った。
「おう、おかえり」
「これ、かっこいいね」
「そうだろう。あまり有名ではないらしいけど、なかなかいいだろう」
「誰が演奏しているの」
「誰だったかな」
父がCDケースを手に取ってアーティストの名前を確認する。ブックレットにはくるくるした黒いセミロングの髪の女性の上半身が写っている。よくみると、白いベッドの上で横になっているようだ。
「ヒューストン・パーソンという人だ」
「ピアノを演奏している人?」
「いや、この人はラッパ担当だ」
「ピアノが特にカッコいいなと思ったんだ。誰が演奏しているんだろう」
「ブックレットに書いてあるんじゃないか」
「そうだね。ちょっと見せて」
父からCDケースを受け取ってブックレットを取り出す。ブックレットには写真と英語の文章が並んでいる。
「んー、書いていないなあ」
「ケースの裏に書いてあるんじゃないか。ちょっと見せてみ」
父がケースの裏側を確認する。
「ああ、ここに書いているよ。スタン・ホープという人だ」
「へえ、聴いたことがない人だなあ」
「ヒューストン・パーソンという人自体もあまり有名ではないようだし、たぶんあまり有名な人ではないんだろうな」
「そうかもしれないね」
かっこいい演奏だから有名になっていてもおかしくないのにな。
私はガレージに据え付けられたオーディオ機材を見回した。ドライバーのホーンが新しいものに変わっている。以前は鋳物製であまり大きくないものだったが、今は木製のかなり大きなものがついている。
「あれ、ホーンを新しいのに変えたんだ」
「ああ、これな。ついこないだやすりで磨いて塗料を塗っていたやつなんだ。」
「ああ、そういえば作っていたね。それにしても大きいなあ。」
「奥行きが前のホーンの二倍ほどある。だいたい五十センチくらいかな。」
「音はこっちのホーンの方がよく鳴るの?」
「その辺は好みの問題だけと、俺はこっちの方が好きだなあ」
父は嬉しそうにそう話した。思わず私も笑顔になる。
「このCD、借りていっていいかな。パソコンに落として聴きたいから」
「ああ、いいよ」
「ありがとう。すぐ返すよ」
父からCDを受け取った。そして、父はにやりとしながら
「気に入ったみたいだな」
と言った。なぜか少し照れくさい。
「うん。ピアノの演奏がすごく気に入った。聴き込んでみたい」
「そうか」
「それじゃ帰るよ。ありがとう。」
「おう。また来いよ」
私は実家を後にした。西の水平線付近はさらに赤みを増していた。
↓父が聴いていたのはこのCDです
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少数派
少数派は平均からのズレを自身で折衝して生きていかなくてはならないという宿命を持っている。
一般的には少数派の意見や存在も、多数派のそれと同じように尊重されることが好ましいとされている。しかし、その尊重が多数派から少数派への働きかけによって生じることは極めて稀で、ほとんどの場合は少数派から多数派に働きかけることで生じる。多数派は少数派とは異なり、何もしなくてもある程度尊重してもらえるからだ。
多数派は少数派を尊重する努力をしなくても自身を尊重してもらえる状態をある程度維持できる。尊重されるためにリスクを取る動機が少数派ほど豊かではない。一方、少数派はリスクを取って多数派に歩み寄らなければ、ほとんどの場合において尊重されない。残酷なようだが、少数派への尊重は何もせずに与えられるようなものではない。その残酷さの分だけ、少数派は多数派よりもリスクを取る動機が強い。
尊重されないかもしれないという差し迫った危機を抱える側の人間が、自身たちの尊厳のために知を駆使して多数派と折衝し、彼らから一定の尊重を獲得する。
それがタフな少数派の生き方だと思う。
終着駅
私の責任じゃない、と彼が叫ぶ。
確かに私が知る限り彼に責任はない。少なくとも私の感覚では。しかし、それを証明して何になるのだろう。責任がなければ苦難が回り道して私たちを避けてくれるというわけではない。ほとんどの苦難は責任があろうとなかろうと容赦なく私たちに襲いかかってくる。
責任がないことを証明すれば免罪符は得られる。だが、免罪符が有効なのは人間が管理統制できるごく限られた領域だけ。それ以外の領域では、免罪符は私たちの安全を保障せず、私たちを受難から護ることもない。
責任がないことを示せたとしても、当事者は結果を引き受けざるを得ない。運命に抗うか従うか、今の彼に選べることは多分それくらいしかない。
彼は叫び続ける。助けてください、許してください、という叫び声がこだまする。
責任は苦難が通り過ぎた後に追及される恐れのあるものとして我々の行動に一定の規律を与える。だが、目の前にある問題についての具体的な解決にはほとんど貢献しない。責任がないことを示したり、責任者を探してことの収拾を押し付けても目の前の苦難は立ち去ってはくれない。
彼は社会システムや他人の不備のせいだと主張し始めた。確かにそうかもしれない、と私も思う。しかし、事実それが妥当な意見だとしても、その正当性が彼を救うことはない。彼の正当性で救われるものがあるとすれば、それは未来に彼と同じ運命をたどっていたかもしれない人々だ。
目の前の苦難を今あるもので乗り切ったり回避したりできない場合、たとえ責任がなくとも、そこから導き出される結果はその人個人が引き受けることになる。引き受けるべきとは言わない。しかし、引き受けざるを得ない。責任はなくても結果は引き受けるしかない。
彼が理解や安全や善意や良心を他者や社会に求めても、そこに救いはなかった。私にもどうすることもできない。
終着駅はすぐそこまで来ている。彼の叫び声はまだ聞こえている。次に叫ぶのは誰なのかを想像して、私は身震いした。