不知火文庫

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転倒

 知人に会うため西宮市を訪ねた帰り道。地下鉄御堂筋線梅田駅。ホームへ続く階段を下りる。目の前からやってくる人が急に私の視界の外へはじき出された。人が地面に倒れこんでいる。どうやら転倒してしまったらしい。
 携帯電話が地面を滑る。私の前を通りすぎようとしている。私は手を伸ばして携帯電話を手に取った。おそらく転倒した女性のものだろう。倒れている女性に声をかける。どうやら大したけがはないようだ。私は軽く微笑んで女性に携帯電話を手渡す。

 女性は少々焦ったような、きまりが悪そうな表情をした。そして、上ずった声で私に礼を言って軽く辞儀をすると足早に私の脇をすり抜けていった。

 

 私はそのまま振り返らず、乗車口まで歩いた。

 転倒した女性のことを考える。なぜ彼女は転倒したのだろう。わからない。私は現場や女性をよく観察していなかった。何もないところで滑ったということくらいしかわかることがない。電車がやってきた。

 電車に乗り込む。転倒は女性の目線からみてどのような現象だったのだろうか、女性にどんな影響を与えたのだろうか。世界が根底から急転したかもしれない。目まぐるしく移り変わり始める瞬間だったかもしれない。じわじわと世界の見え方が変化する遠因になるかもしれない。大した変化を生じさせないかもしれない。それは誰にもわからない。違いは誰にも観測されることなく、結果だけがどんどん生み出されていく。

 彼女の世界が目まぐるしく変わり、根底から一転したとしても、トリガーが何であったかは誰にもわからない。遠い因果は誰にも見えない。近い因果でさえも、傾向から推測することしかできない。結局誰にもわからないまま事実と現実だけが澱のように降り積もっていく。

 それでも、今日もどこかで、誰かが転倒する。それが何かのトリガーになるか否かを知らないまま、よいものであるか悪いものであるかわからないまま転倒する。道行く人も、テレビに映っている人も、あの女性も私も、それ以外の人も。

 

 電車がなんばに着く。電車から降りる。転倒した場所が人目につかない場所だったらどうなっていただろうか。呆然としてそのまましばらくうごけなくなっていたかもしれない。転倒した瞬間にふと現実という夢から覚めて、自分の存在の不確実さや、脆さに気付きそのまま動けなくなってひっそりと消えてしまっていたかもしれない。

 不測のできごとは人の心の中に真空地帯を生み出す。人の心に真空が発生したとき、その隙間に魔が入り込むことがある。呆然とするくらいで済むならばまだ構わないが、生きることへの懐疑をねじ込まれたり、信念に対する不信を植え込まれたりすることがある。現実という夢の中で自身という虚像を保つには、虚構であることを跳ね返す力、生きる力が必要だが、真空の隙間に入るものによっては生きる力をどろどろに溶かされることがあるのだ。

 

 

 私は最後まで夢を見続けて生きることができずに途中で目覚めてしまった人間だ。最後まで夢を見続けて生きられた人の気持ちを真に理解することはおそらくできない。

 しかし、最後まで夢を見続けて生きられるならば、それに越したことはないのではないかとは思う。

 

 

 転倒した女性は肉体的には自分で立ち上がったが、すばやく立ち上がる気力を引き出せたのは周囲の人々の視線によるものが大きかったように思える。視線が個人の社会的な機能を比較的速やかに機能回復させ、私的な心の真空に浸る時間を短縮し、倦怠の海に溺れる危険性を減少させたのではないか。

 視線に起こされることができれば、まだ大丈夫かもしれない。視線では起き上がれなくなったとき、目線の奴隷ではなくなる代わりに人は立ち上がる力を大きく失う。助けなしでは現実に戻ってくることができなくなることもある。人は、周囲の人々は、その可能性をどれほど感じ取っているのだろうか。この世界は常に無数の薄膜を介して消失と隣り合わせであることに。

 

 

 私は床に倒れているところを想像する。床の冷たさが精を欠いた心に心地よい。背中が床と同化していくかのようだ。

 憂鬱でないときは世界と自分をあまり同化させずに、少なくとも同化していなくても生きていられる、という健全で幾分愚かな錯覚を再生産し続ける。憂鬱は謙虚さと錯覚の修正をする役割もある。しかし、そればかりではやがて人は苦しむことしかできなくなる。

 健全で幾分愚かな錯覚は虚構の世界から与えられた薬なのかもしれない。

 

メモ

 私はメモが好きだ。携帯電話、タブレット、PCなどのメモではなく、紙のメモだ。入力の速さや管理のしやすさという観点からいえば電子媒体の方が優れていることが多いが、それでも私は紙のメモを好んで用いる。

 捉えづらいもの、形になる前のものを捉えるには速さが命だからだ。どうやって書き出そうか悩んでいる間に感覚や思考はすぐにすり抜けて消え去ってしまう。着想は失われる前にすばやく記録しなくてはならず、丁寧にまとめながら記録している余裕はない。

 どう表記してよいかわからないものや、適切な図や文字が思い浮かばないようなものを記録したい場合はさらにこの傾向が顕著になる。携帯電話、タブレット、PCなどのメモだと適した文字や図を探している間に着想が消え去ってしまう。

 とにかく書けば何らかの記憶や思考のとっかかりができる。正確さや丁寧さはさほど要ではない。なんでもいいから記憶を呼び戻せるスイッチを残すことが最も重要なのだ。

  散々理由を説明したが、そういうことをべつにしても、なんとなく私は紙の方が電子媒体より好きだ。たぶん本当のところは大した理由はなくて、ただ単に紙が好きなだけかもしれない。今のところ、検索機能や編集機能があるから電子媒体も併用するが、紙媒体に同様の検索機能があるならば、電子媒体はほとんど使用しないかもしれない。

 

 

【追記】

 「紙のメモ」とタイプしようとしていたのに何度か「神のメモ」と打ち間違えてしまった。そのとき、「神のメモ」があったとしたら、それはどんなものだろうかと想像してみた。どのようなことが書かれているのだろうか。世界を創造するための手法、世界を維持するファインチューニング、変数や定数が生み出す影響を観察する実験などについて書かれているかもしれない。

 そのメモが実際に存在していて、私たちがそれを見つけてしまった場合、私たちはどうなるのだろう。どう感じるのだろう。何をするのだろう。また、そのメモを信じるだろうか。

ブルーブラックと相棒

 線がかすれはじめる。ああ、もうそんな時期か。せっかく今いい気分で字を書いていたのに。ため息を一つついて、私はペリカン4001ブルーブラックを取り出した。ガラス製のボトルのキャップをひねって外す。ボトルの入口付近にインクの薄い膜が張っている。その薄い膜の表面にはシャボン玉のような奇怪な模様がうねうねと動いている。しばらくすると、その膜は弾けて消えた。ボトルの細い入口の奥には深い青色が広がっている。

 万年筆を取り出してキャップを外す。軸は大ぶりで無骨だが、力強くてほのかな色気がある。キャップは頭に白い星がある。この星は、フランスとイタリアの国境に位置するヨーロッパアルプスの最高峰の山頂付近を覆う雪をイメージしたものらしい。それを眺めると思わず顔が綻ぶ。

 左の親指、人差し指、中指でニブを上に向けた状態で胴軸を固定し、右の親指、人差し指、中指で尻軸をひねって内部に溜まった空気を追い出す。ニブの付け根の穴から軸内に残ったわずかなインクが飛び出て小さな泡を作る。

 ニブをボトルに差し込む。左の親指、人差し指、中指で胴軸を固定し、右の親指、人差し指、中指で尻軸をひねる。インクが吸引されていく。シュー、シュー、というインクの吸引されていく音が心地よい。

 インクの吸入が終わると、ニブをティッシュペーパーでふき取る。ニブに刻印された4810を眺めてしばし悦に入る。

 相棒を右手に取る。続きを書き始めよう。何を書こうとしていたのか忘れてしまったのが少々残念だが、まあいいだろう。こうして今日も黙々と線を刻んでいく。

文化の定義

文化を定義する方法はいろいろあると思うが、「『健康的な生活を送るためにした方がよいこと』を楽しくこなすための作法」がよいのではないかと思う。

 

【追記】

考えようによっては掃除だって文化だ。