不知火文庫

私設図書室「不知火文庫」の管理人が運営しています。

36℃

 温い。36℃くらいかもしれない。物思いに耽っているうちに紅茶が冷めてしまったようだ。口に含んでしばらくすると、ダージリンの淡い味と香りが口の中に広がっていく。温いものは温度による刺激をほとんど生み出さず、口に含んでも物質的な感覚だけが目立つ。後から続くダージリンの淡い味と香りも相まって、まるで霞を食しているようだ。

 私はこの温さが好きだ。温度による刺激を切り離して物体が触れる感覚を浮き彫りにすることで、温さはものの性質や、温度が果たす役割を垣間見させてくれる。温さの中には一片の真理があるのだ。

 温いものは熱いものや冷たいものとは異なり、じっくり触れて観察することができる。活発な熱交換が生じないからだ。不活性で退屈な状態かもしれないが、誰でもじっくり触れることができる。

 

 私たちは熱いものにも冷たいものにも長く触れ続けていられるような構造をしていない。熱いものや冷たいものは活発すぎる熱交換を引き起こし、無警戒に接触し続けるものから容赦なく生命力を削り取っていく。それらに長く触れ続けるには特別な工夫、訓練、才能などが必要だ。しかし、それでも長時間接触していれば生命力はどんどん磨耗していく。

 ぬるま湯が心地よいのは消耗が少ないからだろう。それは身体だけでなく、心にとっても。たいていのことは温く保つことでじっくりと続けられるようになる。不活性で退屈な状態にも、それ相応の楽しみ方というものがある。

 

 昔はそういう状態が好きではなかった。いつも極端でいたいと願った。しかし、年を重ねるにつれて、そういう状態も悪くないと感じるようになっていった。自分がそう感じていることに気付いたときは困惑した。私は自分がそんな人間だとは思ってもおらず、にわかには信じることも受け入れることもできなかった。

 私は抗った。熱を失っていくことを恐れた。しかし、温くなっていく自分を留めることはできなかった。熱を取り入れる。しかし、それ以上に熱を失っていく。そんな日々が続いた。そして、あるときふとわからなくなった。

 温いことはそんなに悪いことなのか。

 

 人生が少しずつ温くなっていくものであることは、避けようのない運命のように確実だった。認めざるを得なかった。 温くなることを否定して抗い続けるという選択肢もあった。避けようのない未来の自分自身を、現在の自分が否定することもできた。しかし、私はそんな生き方をしたくなかった。あるいは、できなかったというべきかもしれない。

 全てのものは遅かれ早かれ温くなる。熱い状態をいつまでも維持することはできない。熱は失われ続ける。やがて温くなるならば、あるいはさらに冷たくなるかもしれないならば、それに順応していける人間でありたい。温くなることを恐れたり、そのことに罪悪感を持ったり嫌悪したりする必要はない。私はただ、よく生きたい。 どんな状態でもしなやかに生き抜ける人間になりたい。私の願いが大きく変わった。

 たぶん、私は年を取ったのだ。私は普通であることの楽しさと気楽さを受け入れた。それもまた悪くない、と。過去の私が今の私をみると、驚くだろう。そして、怒り、嘆き悲しむかもしれない。

 

 彼に伝えたい。抗うことは決して悪いことではない。大いに抗うべきだと。抗うことは大切だと。しかし、未来の自分を否定し、犠牲にするような抗い方をいつまでも続けることはできない。継続可能な、「温い」抗い方を掴まなくてはならない。抗いながら温くなり続け、それでもあなたの中に残るものを大切にすればいい、と。

 

 命というものはぬるくなってからが本番だ。熱を失い温くなり、抗うことに疲れたころに、人は真の生き方を固め始める。それは覚悟か諦めか。

 

 今日もたくさんの人が生きていく。温くて不活性で退屈な存在が。

 誰かが私の向かいに座った。私は顔を上げる。すらりとした長身の、整った目鼻立ちをした美しい女性だ。女性は横を向いて長椅子にかけている。女性は長椅子にかけると、さっと鞄から文庫本を一冊取り出し、その本を読み始めた。ここでしばらく時間をつぶすのだろうか。

 私はさして気に留めるでもなく、考えごとの続きを始めた。

 数分程経っただろうか。私はなんとなく考えごとをやめて女性がいる方を見た。女性はさっきと同じように本を読んでいる。私が考えごとに戻ろうとすると、女性は文庫本を閉じた。鞄を探り、ハンカチを取り出した。そして、それを口に当てて舌なめずりをした。私の目の前で。

 私は少々困惑した。美しい人の下品な姿を垣間見ると、いつもこうなる。下品な行為をうまく隠せていない野暮な人。自分の隣にはいてほしくないような人。しかし、なぜか魅惑的で、絵画のカットのように絵になるような光景。

 その女性は私の方を一瞥すると、軽く会釈した。その動きはしなやかで柔らかく、露骨さをかけらほども感じさせない。私は会釈を返した。困惑はさらに深まっていた。

待ち人

 ひどく蒸し暑い日の夕刻、海岸線に足を運んだ。橙の空と紫の海を見つめる。空の青は消え失せ、海の青は紫としてその一部を残したようだ。高い湿度のせいか大気は霞み、空と海の境界が曖昧なグラデーションに覆われている。紫の珈琲に橙の牛乳を混ぜたカフェオレのようだ。

 空と海は闇の一部になるまでに通る色彩が異なる。闇の一部になるまでに通る道筋は世界に存在するものと同じだけ存在する。終着点が同じなのに経路が大きく異なるのは生命とよく似ている。

 空と海の果てで海の紫と空の橙が混ざりあう。紫が橙に向かって立ち上り、煙のように散っていく。境界とはこのような混ざり方をするものだったのだろうか。

 

 ため息をつきながら瞳を閉じる。遠い過去を思い出す。ため息が吹きかかって、記憶が優しく朽ちていく。 もやと闇が明ければ、空と海は明瞭な境界線を取り戻すだろう。そして、世界は何事もなかったかのように回り続けるだろう。

 決断はもやと闇を晴らして明瞭な境界線を生み出す。そして、その境界は年輪のように私の心に刻み込まれていく。この境界線もまたそうだった。適切であったかどうかはわからない。だが、私は今こうして生きている。社会的に見て、まずまず健全に生きられているのではないかとさえ思う。たぶん、この境界線は私を生き延びさせる程度には適切だったのだろう。

 先日、風の噂であの人が元気にしていることを知った。

 私は何度も、もう一度あの人のもとを訪ねたいと思った。しかし、行動に移すことはできなかった。あの人との思い出の場所やあの人に所縁のある場所には時々吸い寄せられるように足を運んだ。しかし、あの人に出会うことはなかった。

 思い出の中のあの人はもういない。セピア色に褪せた、温かくてほのかに苦い記憶の中にだけあの人は佇んでいる。記憶の中にしか存在できない人を想う。あの人は境界線の向こう側にいる。

 数日前、私はその境界線が薄くなってきているような気がした。あるいは、不明瞭な層に変化してきているように思えた。年輪のように刻まれていた線が曖昧になってきている。境界線をなくしてしまうわけにはいかない。私はその境界線で自分を守らなくてはならない。

 生きるのだ。

 

 瞳を開く。頭がぼうっとする。私はいつの間にか海岸線の側の階段付近で横になっていた。くすんだ青墨に染まった空が見える。

 瞳とまぶたについてぼんやりと思考を巡らせる。世界を観測するのものと、世界の認識を遮るもの。瞳は見つめ、まぶたは遮る。瞳は世界を紡ぎ合わせ、まぶたは世界を切り取る。瞳は夜の空に、まぶたは昼の空に似ている。あるいはその逆でもよいかもしれない。

 しばらくして身体を起こした。橙赤色に燃える太陽は既に水平線のかなたへ去っていた。黄昏時だ。世界が急速に色褪せていく。

 心がざわつく。夜が、もうそこまで来ている。急激に光が失われていく。空は茜色の洋服を脱ぎ捨て、くすんだ青墨が東の空から西の空へと広がっていく。やがてそれは西の境界へたどり着く。そのころには青墨はより濃密になり、限りなく透明度が高くなるだろう。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

私はずっと迷っていた。そして、さらに色が失われていく。

「褪せていくことを嘆くのか。褪せていくことを楽しむのか。」

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 待ち人は来ない。空は衣装を脱ぎ、濃密で、抜けるよう透き通った青墨の世界が少しずつ広がっていく。もうここには来ない、そう決めて私はこの場を後にした。

 

(未完・加筆予定)

 

 

聖域

 聖域とは何だろうか。ある辞書曰く、侵してはならない神聖な場所・区域、という意味らしい。侵せない、ではなく侵してはならない、というところに聖域の性質が垣間見えるように思える。 侵すことは簡単で、侵されないように保護しなくては存在することが困難なもの。それが聖域というものではないか。 

 

 聖なるもの、尊いものが在る空間。

 おそらく聖域はあるものが「在る」空間ではなく、あるものが「ない」空間のことではないか。私はあるものとは抽象的には「よくないもの・不快なもの」だと思う。聖域はよいものを集めても発生するのではなく、よくないものを取り除かれることで発生する。空間がどれほどよいものに満たされていても、そこにひとつでも強い不快感をもたらすものが混入すれば、その空間は浄化された心地よい空間でなくなる。よいものを集めることは聖域ができた際の純度や格式を高めることはあっても、聖域そのものを生み出すことには貢献しない。

 

  塗香は聖域を作りだすためにする工夫のよい例かもしれない。塗香は身を清めるためにあるというが、おそらくこれにはもっと具体的かつ明確な理由がある。

 そのうちの一つは聴覚に煩わされるのを避けるためではないだろうか。僧が人里離れた森の中で修行する際、視覚、味覚、嗅覚、触覚に関する不快な信号の回避は、おそらく場所を変えるだけで事足りる。しかし、聴覚だけはそうはいかない。虫が周囲を飛び交う雑音等は、場所を変えるだけでは回避しきれない。

 五感全ての不快な信号を極限まで減らせないと、修行に適した聖域は完成しない。その最後の関門が聴覚だった。おそらく、昔の僧たちは修行に集中するために塗香を虫除けとして身体に塗ったのではないか。

 

【追記】

 必要なものは拵えておくべきだが、必要でないものはたとえ良いものであってもほとんど聖域の形成には貢献しない。ものは必要十分のものが備わった状態に近づけておくことが望ましいのかもしれない。

精密検査

「精密検査、受けたくないな。悪いところが見つかるかもしれないし。」

「あなたなら大丈夫だと思いますけどね。」

「わからないぞ。すみずみまで検査されるんだからな。」

「心の中までは検査されないから大丈夫ですよ。」