不知火文庫

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ある喪失

 午後10時。今日は作業がはかどらない。やる気も出ない。今日はそういう日だということをうすうす理解しながら粘り続けたが、どうやら本格的に調子が悪いようだ。

 ベッドに寝転がる。伸びをすると腹筋が伸びて気持ちがいい。ベッド脇にある背の低いテーブルの上にあるアロマキャンドルに手を伸ばす。机の上にあるマッチ箱からマッチを取り出し、箱の側面でこする。燐が爆ぜる音とともにマッチの頭から大きめの火が生じる。暫くするとマッチの頭に付着している燐が燃え尽きて火の勢いが弱まる。その頃合いを見計らって、マッチの頭を下に向ける。マッチの軸に炎が延びて、火が勢いを取り戻す。着火の頃合いだ。

 マッチの頭をアロマキャンドルの芯に近づけて着火する。キャンドルに火が着いたことを確認し、人差し指と中指で挟んだマッチを親指で軽く弾く。炎が消えて、煙が立ち上る。微かな酸味を含む焦げたにおいが漂う。

 最初のうちはキャンドルの香りとマッチから出る煙のにおいが混ざって変なにおいが生じる。しかし、マッチの煙はじきに消え、しばらくするとマンハッタンの心地よい香りが鼻腔をくすぐら始める。

 最初に心地よい香りがしないのならば、マッチを使わずライターを使えばいいのかもしれない。たぶん、その方が香りを楽しむ作法としてはスマートだ。

 しかし、私はマッチで着火する。大した理由はない。マッチがたくさん余っているから、それを使ってしまいたいというだけのことだ。

 

 私は部屋の照明を落とした。外から入ってくる風がキャンドルの火を揺らめかせる。部屋の中が暗くなると、キャンドルの火が揺らめく様子がより神秘的にみえる。キャンドルの火をみつめながらぼうっとする。今日は本当にやる気が起きない日だ。ぼうっとすることも大切だ、と何かに言われているような気がした。

 しばらくキャンドルの火を見つめ続けていると、目の感覚がおかしくなってくる。明るい部分だけがよく見えて、暗い部分の詳細が見えにくくなっていく。

 

 ろうそくの向こう側に過去と未来が見えたらいいのになあ、と空想して大きなため息をつく。キャンドルの火が大きく揺れる。もしそんなことが可能なら、私はこんなにたくさんの失敗を重ねることはなかっただろう。ifの話は好きではない。考えても過去は変わらない。どうしようもないこと、過ぎたことを考えても苦しくなるだけだ。

 しかし、それでもときどきifを想ってしまう。決して好きではないが、そういうことも少しは必要ということなのかもしれない。

 

 あるとき、私は人を愛した。生まれて初めて、心から愛した。しかし、それは望ましい愛でも幸せな愛でもなかった。二人とも自分自身の問題に向き合うことができず、お互いの苦しみに構い合って自身の問題から目を背け合っていた。愛した人は苦しみ続ける私をどうすることもできなかった。私も愛する人をどうすることもできなかった。互いに手放さなくてはならないものを手放せず、乗り越えなくてはならないものを乗り越えられず、かといって愛する人の手を放すこともできなかった。

 真夜中の深海に沈み込んでいるような日々だった。あの人もそうだっただろう。お互いにつらかった。きっと、つらさだけが私たち二人を繋ぎとめていた。願えば願うほど、現実に向き合おうとすればするほど、どうにもならない息苦しさが私を取り巻き、がんじがらめにした。それでもお互いに手を放すことはできなかった。

 ある日、私はひとこと、言ってはならないことを言った。愛する人はどうしても放せなかった手を放した。別れのとき、愛する人は笑顔だった。しかし、ずっと涙を浮かべていた。私は理解者を失った。そして、また一人になった。失ったものの大きさをそのとき初めて理解した。人の心を取り戻させてくれた人。もうその人は戻ってこない。

 

 あの人は今でも私の中に消えないものを残し続けている。私が人の心を取り戻し始めるきっかけをくれた人。あの人は今どうしているのだろうか。もう会いたいとは思わない。ただ、幸せに過ごしていてほしいと、今でもときどき何かに祈りたくなることがある。

 

 キャンドルの火に魔力があれば避けられたかもしれない悲劇。ろうそくに魔力がなかったから起きた別れ。キャンドルに魔力はない。ifはそろそろお終いだ。

 私はキャンドルにふたを落として火を消した。火が消えて暗くなる瞬間、私は幸せな幻影をみたような気がした。その幻影はどちら側の私なのだろうか。