不知火文庫

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不文律

 理由はいつまでたってもどこまでいってもわからない。数学の公理によく似ている。

 理由と実在の両方を明確に定めて保てる世界は存在しない。理由の存在を保証すれば実在の存在は保証できず、実在の存在を保証すれば理由の存在は保証できない。この世界はそこまでうまくできていないのかもしれない。少なくとも、私が観察できる限りの範囲では。

 理由と実在を論理と公理に変えれば、そのまま数学に関する事実の記述になる。世界が成り立つには、理由と実在のどちらかまたは両方が不完全であることを認められなくてはならない。世界は不明瞭かつ面倒な仕組みのもとで動いている。

 

 

 

 愛も同じこと。愛する理由が明らかになると、その実在が危うくなる。

 愛する理由が一つわかったとする。その部分がなくなれば愛は消えるのだろうか。イエスならば愛は終わりだ。ノーならば次の理由で同じことを試す。切り取り続ければ、やがて愛は底をつく。理由が無限にあればそうはならないかもしれないが、それでも危ういことに変わりはない。

 愛する理由を理解しても、それは愛を守る力になってはくれない。愛を守るには、理解を重ねながらも理解できない領域を守り続けること。あるいは理解できない領域の存在を信じること。それは信じられるならば虚構であっても構わないし、突き詰めれば虚構にしかならないだろう。

 それをうまく信じて自らうまく騙されることによって愛は守られる。愛の理由を不文律化することで、愛は綻びのない環になる。

怪奇

 ある日の夜、眠りにつきかけたころ、突然どこかからキリキリという不気味な音がし始めた。何かにみられているような、何かが迫ってくるような感覚に襲われる。私は布団に包まり、その端を握りしめて怯えながら夜を明かした。

 気が付くと朝になっていた。私はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。しかし、あまりよく眠れなかったせいか、頭がぼんやりする。昨晩にあったことを両親に話した。しかし、両親はそのような音は聞こえなかったという。

 私が何度説明しても、両親はまともに取り合うことも理解を示すこともなかった。両親は私をおかしいと断定して責め始めたので、私は口をつぐんだ。

 

 どこからともなく聞こえる不気味な音は毎晩のように鳴り続けた。聞こえるのは決まって私が眠ろうとするときだ。どこから聞こえてくるかわからない不気味さは私の恐怖を煽る。そして、神経をささくれ立たせる何かがあった。この音が聞こえてくるたび、私は恐ろしくなった。やがて、音が聞こえてくるかもしれないことに怯えるようになり、眠ることさえも恐れるようになった。

 私は堪えきれなくなって何度か両親に訴えかけた。実際に音が聞こえたときに両親を起こして聞かせようとしたこともあった。しかし、両親にはこの音が聞こえないようだった。毎回、私がおかしいのだと責められた。だが、私の耳には確かに聞こえているのだ。その後も音に怯える日々は続く。

 何度目かの後、私は両親に話すことをやめた。自分以外の人に理解されることを期待しなくなり始めたのはその頃だったような気がする。

 

 音はそれからも聞こえた。しかし、聞こえる頻度も音量も減少していき、やがて私にも聞こえないようになった。私の夜に平穏が戻った。結局、音の正体がわかることはなかったが、私はさほど気にせず、いつの間にか奇妙な音が聞こえていたことさえも忘れた。

 

 不気味な音は私や私の周囲に直接的な危害を生じさせることもなかった。しかし、この音によって失われたものが戻ってくることはない。

 そして今、またあの音が聞こえている。

衝動、あるいは扉

 直感は当たったその場で掴み取れ。血潮が褪せて、脈が消えるその前に。

 生命の躍動、意識の核、水面下の閃光、取り出すためには正確さよりも勢いだ。全ては勢いから誕生する。今を切り拓くのは、調和した美しさではない。歪に尖った衝動だ。調和に惑わされず、魂を解き放て。

 

 情熱が胎動する。迷わず食らいつく。放すな、逃すな、この感覚。

 

 この瞬間、逃せばもう後はない。始まりとはそういうものだ。逃したものに執着するな。執着は心を過去に縛り付け、「今」から力を吸い上げる。この瞬間は過去を想うな。今に全てを注ぎ込め。

 

 失う前に掬い取れ。忘れる前に刻み込め。

 

 過去から現在、現在から未来への一連の流れに思いを馳せる。悪いことではない。しかし、居着けば活は失せていく。思いを馳せても留まることにはこだわるな。

 調和を一時手放すことで、次の扉は開かれる。

 

 

 こんなことを熱心に文章化するのは、私がこの感覚を自分のものにし切れていないからだろう。自分にとって当たり前のことならば、文章にするまでもなく、そういう考え方のもとで考えたり感じたりすることを文章にするはずだ。

 文章を書くときは、既に完成した様式については明示的な表現をすることが難しくなる。様式が完成するとは、その様式が当人にとっては当たり前のものとして消化されてしまったということだ。 

 思考にせよ感覚にせよ人は当たり前のことを主張したがらない。承認欲求がむき出しになるのは完成していない様式を用いるときだ。そのとき、その様式は明示的な主張という形を伴って姿を現す。

 成長・完成までの間のもがきやあがき、地道な修練は、その最中になければ明示的な主張として表現することはできない。修得してしまった後では当たり前すぎて野暮だと感じてしまうからだ。そうなれば、その様式においては明示的で勢いと躍動感のある表現をすることは困難になる。

 

除草

 17時。日はかなり西へ傾いてきている。日没まであと2時間程度だろうか。長い石段の前に立つ。石段に足をかけ、上り始める。一歩当たりの歩幅が小さくて上りにくいので数段飛ばしだ。階段を上りきると高台に出た。墓地の入口だ。付近には蛇口とたくさんのバケツとごみ捨て場がある。

 バケツを一つ手に取って蛇口の下に置く。蛇口を開ける。勢いよく水が出る。三分の二程度までバケツに水がたまったら、蛇口を締めてさらに高いところまで登り始める。頂上まではあと1分ほどだ。途中、細くて階段がなく足場の悪いところがあるので、足元に注意しながら頂上を目指す。

 雑草があちこちから生えていて、狭い道がさらに狭く感じられる。非常に歩きにくい。額から汗がにじみ始める。なんとかその道を抜けると、今度は区画と区画の隙間が足の横幅一つ分程度しかない場所にさしかかる。区画を踏んでしまわないように細心の注意を払いながら歩を進める。

 頂上だ。

 そこには私の先祖の墓がある。額の汗をぬぐいながら墓石を眺める。飾り気のない簡素な石だ。私の祖父は四年前の夏、ここに入った。祖父はここで眠っているのだろうか。それとも、もう別の場所へ行ってしまっているのだろうか。私にはわからない。だが、祖父がいるかもしれないので、墓はきちんと綺麗にしておきたい。だから、私はこうしてときどき掃除を兼ねて墓参りをする。

 墓石の周りには砂利が撒かれており、その隙間からは雑草が伸びている。強い日差しにも負けず、10センチ程度の背丈にまで成長しているものもある。まずはこれらを摘み取っていく。南無。次に、小さな雑草や背が低く横に広がって成長する雑草も摘んでいく。墓がどんどん綺麗になっていく。十数分ほどそうしていただろうか。さて、ほどほどにして切り上げよう。

 墓前に花を供え、持ってきていた線香を墓前にあげる。しゃがみこみ、墓石に向かって手を合わせる。しばし、瞳を閉じる。

 

 ………………

 

  雑草はたくましい。とても撲滅できるような相手ではない。撲滅を目指すのではなく、ある程度は見過ごしてうまく付き合っていくしかない存在だ。

 仮に今このときは完全に雑草を摘み取れたとしても、またすぐにどこからともなくやってくる。しばらくすればまたやってくる。永遠に彼らが生えてこないようにすることは困難だ。不可能ではないかもしれないが、半永久的に彼らが生えてこないような場所にするには核で焼き尽くしたり常に氷点下の氷雪気候にするくらいのことはしないといけないだろう。

 そこまでするには、こまめに手入れをする以上の犠牲や手間が必要だ。また、そうしてできた場所は人間にとっても住みにくいか、住めない場所になってしまうだろう。明らかに雑草を駆除するのに懸けてもよいと思われるものを超えている。そこまですることはない。

 難しく考えることはない。雑草を完全に除去することを放棄して定期的に掃除すればいい。根絶やしにはできないが大きくなりすぎる前に、そこそこ大きくなったものだけを摘み取れば、それでよいのだ。合理的でなくても、楽でなくても、継続できるくらいの手間をかけるだけで済むうちはそういう方法で綺麗にすればいい。

 

 

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 彼は一心不乱に、選別することもなく除草している。肌は青白く、頬はこけている。彼に問うと、どれだけ除草してもまた雑草が生えてくるかと思うと不安でたまらないのだという。彼の手にはごく豆粒のような雑草が握られている。

 ふと、彼の首周りに青々としたものがみえた。よくみると、それは雑草だった。彼の胸から生えているようだ。青々と生命力に満ちた雑草は彼を覆い尽くさんばかりだ。私は一言だけ、ほどほどにするように、と彼に伝えてその場を去った。

 

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 不安や困難なども雑草と似たようなものかもしれない。早めに除かなくてはまずいもののみを除去できれば、まずはそれでよしとする。余裕があればもう少しだけ手をかける。無理のない範囲で対策をする。

 無理をしないと除去できない不安や困難は、除去できたとしてもあなたをすり減らす。そして、すぐまた似たような次の不安や困難を生み出す。不安や困難はいつまでも消えない。そして、少しずつ不安や困難に心を喰われていく。そうなるくらいなら、ある程度のところでなあなあにしてしまえばいい。何事にも身の丈に合う付き合い方というものがあるものなのだ。

 無理をしてまで除去しようとしない。無理をしないと除去できない不安や困難のために今の自分をすり減らさない。そういう生き方の方が楽しいのではないか。

 そのために必要なのは覚悟だ。

 

 

 ………………

 瞳を開ける。立ち上がると軽いめまいがした。しばらくその場で立ちすくむ。

 また来るよ。心の中で祖父にそう伝えて墓前を後にする。日が沈むまでにはまだ少し時間がかかりそうだ。