不知火文庫

私設図書室「不知火文庫」の管理人が運営しています。

あるいは無

〔↓のBGMを聴きながら読むと雰囲気が出るかもしれません〕

 恐怖で身体が一瞬こわばる。数瞬後、私ははじけ飛ぶように逃げた。全力で走る。絞り出せる限りの力を振り絞る。橋が見えてきた。橋はいけない。目立つ上に挟み込まれると逃げられないからだ。橋の下にもぐりこんで川沿いを下流に向かう。すると、突然、右足に何かが噛みつき、私の身体が弾き飛ばされた。

 何かに引き上げられるような感覚がある。乱暴に引っ張らり上げられている。周りの景色は見えているはずだが、なぜか視覚として意識に上らせることができず、言葉で表現することもできない。どこか深いところのような気がすること以外は何もわからない。

 身体を弾き飛ばされた後、私は気が付くと今いる場所にいた。何者かが私を深いところから引き上げようとしているようだ。あともう少しで引き上げられるだろうというとき、私は視覚と言葉を取り戻した。そして、周囲の空間がぐにゃぐにゃと変化し始めた。

 

 私はベッドの上で目を覚ました。呼吸が大きく乱れている。息がひどく苦しい。太陽の光が私の顔に当たる。まぶしい。光は東側の窓から入ってきている。どうやら今は朝のようだ。私は時計を見た。そろそろ家を出る支度をしなくてはならない。

 ベッドから降りるとずきりと足首が痛んだ。足首に擦り傷と捻ったような痛みがある。眠る前のことを思い返してみる。しかし、脚にそのようなけがをしていた記憶はない。なぜ足にこのようなけがをしているのかが気になるが、そろそろ家を出る支度をしなくてはならない。私は考えるのを中止して身支度を始めた。

  結局、身支度をしている途中も足のけがのことが気になり、朝食を食べている間もずっと考え続けた。思い当たる節は全くない。もやもやとした気分のまま朝食を終え、私は仕事に行くために自宅を出て最寄り駅まで歩いた。

 

 職場の最寄り駅で電車を降り、改札を抜ける。駅の構内を抜け出してしばらく歩くと、川と橋が見えてくる。橋を渡る。足がずきりと痛んだ。そういえば、夢の中で足にけがをしたような気がする。その先を考えようとして、私はやめた。夢の中でしたけがが現実にまで持ち越されるわけがないのだ。

 私は目が覚める前に見ていた夢の内容を思い出しながら職場へ向かうことにした。

 たしか私は首を打たれる直前に逃げ出した。全力で走り、鴨川沿いを下流に向かったが、川沿いで足元の罠にかかって濁流が渦巻く川の中に落ちた。そして、追手に引き上げられようとしていた。みなを想う。しかし、それ以上に自分自身と未練を強く想っていた。そのことを少し後ろめたく感じた。そこまで思い出して、私は気分が悪くなった。朝から嫌なことや不可解なことが起きている。何事もなく平穏無事な一日を過ごせるとよいのだが。

 ふと私はおかしなことに気が付いた。私は夢の中で首を打たれる直前に逃げ出し、再度捕まりそうになっているところで夢から目を覚ました。しかし、私は目を覚ました後の夢の世界の記憶もあるような気がするのだ。夢の世界の続きでは、私は両手のひらに酒を注がれた。それを飲み干した後に首を刎ねられるらしい。処刑の際の作法なのだろう。私は処刑される直前、湧き起こる未練を酒とともに飲み下した。飲み下したのは残される人のための未練というよりは、むしろ私自身の未練だった。そして、私は首を打たれた。その後のことはわからない。絶命したからかもしれない。

 私は私の一部が失われてしまったような気になった。単なる思い込みかもしれない。たぶんそうだろう。そう考える方が自然だ。その方が現実味のある解釈だろう。しかし、足にできた謎のけがのせいか、私は目が覚めた後の夢の世界の記憶を偽物だと断定しきれなかった。何かがおかしい。

 首を打たれることになった経緯を思い返す。しかし、記憶がないのか、抑え込まれているのか、何もわからない。夢の中の私はなぜ首を打たれることになったのだろう。そして、なぜ、夢の中でついたと思われる外傷の一部がこの世界の私の身体にもついているのだろう。全ての外傷がこちら側の私につかなかっただけでも幸運かもしれない。すべての外傷がこちら側の私にもついていれば、私はベッドの上で胴体から首を切り離された状態で死んでいただろう。幸い、そうならず、私は今ここにいる。

 やはりあれは夢だったのだろう。

 しかし、私は別の解釈があることにも気づいていた。こちら側が夢である可能性だ。たとえ現実が消滅しても夢は夢で存在し続けていても何もおかしくない。

 お互いが自身の世界を現実として認識し、相手の世界を夢であると認識しているのかもしれない。どちらが夢でどちらが現実かは誰にもわからない。そして、夢とも現実ともわからない世界はもっとたくさん散りばめられているのかもしれない。

 

 私は急に自分の存在に確信を持てなくなった。私がいる世界は本当に現実なのだろうか。そして、自分の存在が現実であることはそんなに重要なことなのだろうか。

 

 私にはわからない。職場が見えてきた。しかし、私の心には何も見えない。 

 

 

 

 

www.youtube.com